1990年以降のバブル崩壊の事例(前編)

 

 今回は、過去を振り返り、私が目にしたバブル崩壊の事例を検証してみたいと思います。

いつもながら、思ったよりもボリュームが増えてしまったので、前編、後編で対処します。

 

さて、過去の事例を俯瞰すると

概ね、10年程度の期間ごとに、何らかのショックで金融マーケットは大きな調整を経てきています。

 

本来なら、定量データとして、株価だけでなく為替推移、金利推移、コモディティ価格の推移や各々の相関係数、標準偏差の推移等、多岐に渡る分析が必要なのですが、今回は、一金融マンとしての定性的な視点からの俯瞰がメインということでご容赦ください。

 

 基本構造としては、金融緩和で債務残高が大きく伸びて臨界点に達したところで、金融引き締め転換によって、個人だけで無く、企業や国までもがダメージを負うということの繰り返しだと感じています。また、実力に見合わない為替政策や金融政策、財政政策を維持することで、矛盾が生じ、その解消のために大きな犠牲を伴うケース(アジア通貨危機、最近では英国の事例ですね)などもありました。

 

過去の日本のケースなどを振り返ってみると、バブルやインフレを沈静化させるために、金融引き締めを実施しても、利上げ停止のタイミングを逃すケースや利上げ幅が適切な水準を大きく超えてくると、深い景気後退につながったように思います。

 

 1990年代と2000年以降は金融危機の波及経路が異なり、前者は基本的に震源地近辺のみ、後者はグローバルな危機に拡大したことがわかります1990年以降の日本のバブル崩壊や1997年のアジア通貨危機、1998年のロシア経済危機も米国株式市場には影響が軽微だったことが騰落率を見ることでハッキリします。

 

 一方、2000年以降のドットコム・バブルやリーマン・ショックでは、グローバルで株価は急落しました。表には記載がありませんがコロナ・ショックも同様でした。

 

以下に1990年から2010年までの、S&P500と日経平均の騰落率を見てみます。

 

 

 

日経平均株価指数 S&P500 イベント
1989 38,915.87   日経平均最高値
1990 23,848.71 -38.7% 4.51% 日本バブル崩壊スタート
1991 22,983.77 -3.6% 18.86%
1992 16,924.95 -26.4% 7.34%
1993 17,417.24 2.9% 9.76%
1994 19,723.06 13.2% -2.32%
1995 19,868.15 0.7% 35.20%
1996 19,361.35 -2.6% 23.61%
1997 15,258.74 -21.2% 24.69% 日本の金融危機とアジア通貨危機
1998 13,842.17 -9.3% 30.54% ロシア経済危機
1999 18,934.34 36.8% 8.97%
2000 13,785.69 -27.2% -2.04%
2001 10,542.62 -23.5% -17.26% ドットコム・バブル崩壊
2002 8,578.95 -18.6% -24.29%
2003 10,676.64 24.5% 32.19%
2004 11,488.76 7.6% 4.43%
2005 16,111.43 40.2% 8.36%
2006 17,225.83 6.9% 12.36%
2007 15,307.78 -11.1% -4.15%
2008 8,859.56 -42.1% -40.09% リーマン・ショック
2009 10,546.44 19.0% 30.03%
2010 10,228.92 -3.0% 12.78%

 

 

 日本の日経平均株価指数は、1989年末をピークに長期下落傾向ですが、1990年から1992年のバブル崩壊初期も大きな下落率だったのが、改めてわかります。その一方、米国のS&P500指数は、その間、堅調な展開でした。

また、1996年から1998にかけての日本の金融危機、アジア通貨危機、ロシア経済危機が続いた時期も日経平均は下落が続きましたが、S&P500は、上昇トレンドを維持しています。

 

 2000年後半から2002年にかけてのドットコム・バブル崩壊については、日米とも大幅な株価下落となっていますが、同期間を比較すると、日経平均の下落率の方が大きくなっています。同様に2007年から変調が見られたリーマン・ショックの下落率も日本のダメージの方が甚大でした。残念なことに、どちらのリバウンドも米国の方が大きいことがわかります。先に触れた通り、1990年代の危機は、ある程度、地域限定だったものが、2000年代に入ってからは、グローバルな危機に広がっている傾向が見られます。金融インフラが進展し、グローバルでの資金移動や投資が容易になり、危機も波及しやすくなったことが背景のように感じています。

 

 

【日本のいわゆるバブル崩壊】

 

 1989年末に日経平均株価指数は、38,915円の史上最高値をつけました。

株式市場はその後、つるべ落としのような下落が始まり、1990年10月には20,000円を下回り、わずか1年足らずの間に50%近い下落となりました。

不動産に関しては、時期が少し遅れて、1991年頃がピークとされています。

 

 当時の公定歩合(現在の政策金利)は、1987年に2.5%まで引き下げられ、バブル経済に加担したような状況でしたが、1989年5月から金融引き締めが始まり1990年8月には、6%まで引き上げられました。短期間でかなりの利上げがなされたことになります。

不動産市況悪化は、1990年3月に不動産総量規制が行われ、金融機関の融資姿勢が変化したのがキッカケとされています。

 

その後、株式と不動産価格の下落で金融機関の不良債権問題が深刻化しました。

不適切な会計処理などもあり、その後の金融不安につながっていきます。

 

とは言え、1990年代前半までは、日本も国際競争力を維持し、一時的な景気後退に過ぎないと多くの人達は感じていました。

 

 1990年から証券会社の社員として、金融マーケットとお付き合いしていましたが、個人的には、バブル崩壊第二章(?)の1997年から1998年にかけての国内金融危機が特に印象深いです。当時、日本企業の破綻や廃業が相次ぎ、主な企業だけでも、山一證券、北海道拓殖銀行、日本長期信用銀行、日本債券信用銀行、三洋証券等が挙げられます。

 

 三洋証券破綻によって、初めて無担保コールのデフォルトが発生し、その影響が幅広く広がり、金融不安が高まりました。同社に限らず、過剰な設備投資や不動産融資、関連会社による不動産投資が不良債権化し、相互不信につながっていったケースが多かったようです。また、三洋証券破綻は、それまでは、旧大蔵省主導で大手金融機関は経営不振になっても合併などによって救済されると認識されていましたが、無条件に救済される訳では無いと示されたケースとされています。ピークには、毎月のように企業破綻や廃業があった記憶があります。

 

 その当時、私は事業法人関係の仕事をしていましたが、様々な金融機関で取付け騒ぎ(預金の引き出しに顧客が殺到すること)が起きていることを耳にしました。また、金融機関の融資姿勢が厳しくなり、貸し剥がし(融資の回収)も頻発していたようです。金融機関も事業会社も双方が相手を信用できないような状況下でした。大手メーカーや商社なども、資金繰りという点で相当な危機に瀕していたようです。株価の下落も激しく、ようやく、落ち着きを見せたのが、りそな銀行の国有化がキッカケだったと記憶しています。

 

 当時の証券会社の法人部門の取扱商品のひとつに既発の割引金融債がありましたが、顧客によっては、長期信用銀行債や日債銀債は、危機が表面化する前から避けられていました。また、他の金融機関発行の債券に対して、プレミアム(上乗せ金利)がついていましたが、投資家ニーズは高くなりませんでした。

 

また、プレミアムと言えば、日本の会計制度や不良債権に対する海外からの不信感などもあり、ジャパン・プレミアムが発生したのも、この頃です。日本の企業が資金調達をする際に、通常よりも高い金利を要求されました。このように様々な経路を通じて、資金調達が厳しくなっていたのが、1997年から1998年にかけての日本の金融不安の時代でした。

 

国内での出来事でしたが、個人的には、リーマン・ショックの時以上の閉塞感を感じました。

 

 日本のバブル崩壊を私なりに総括すると、官民とも株価や不動産価格の下落が一時的で、やがて回復することを前提に考えていたように感じます。粉飾決算の是非は言うまでもありませんが、問題の先送りがダメージをより大きくしたように思っています。

 

いずれにしても、1990年以降、高度経済成長の時代から諸先輩の方々が培ってきた日本の活力や技術力が相対的に低下していることが残念でなりません。

 

次回は、今週の続きで「1990年以降のバブル崩壊の事例(後編)」の予定です。

 

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